李白

福井を代表する料亭「開花亭」の名前の由来は、『両人対酌山花開』詩仙の詩です。詩先は李白で、後世になって詩仙と称されるようになりました。李白は中国の盛唐の時代の詩人です。唐代だけではなく、中国詩歌史上で同時代の杜甫とともに最高の存在とされています。

李白略歴

生まれ

李白の出自と出身地にはいろいろ諸説があって、詳細は不明になっています。『旧唐書』本伝の記述では山東の出身とまっていますが、清の王琦などをはじめとした通説では、これを誤りとしています。

李陽冰の「草堂集序」および范伝正の「唐左拾遺翰林学士 李公新墓碑」、さらにこれらを踏まえたとされる北宋の欧陽脩『新唐書』などの記述では、李白は隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人で、西涼の太祖武昭王・李暠の9世の後裔となっています。

李白の先祖は、隋末の時代に何らかの事情があって西域の東トルキスタンのあたりに追放されていて、姓を変えてその地で暮らしていたようですが、中宗の神龍年間に、西域から蜀(現四川省)に移住して、李白が生まれたことをきっかけとして李姓に戻したとされています。

20世紀に入ると、陳寅恪たちが李白を西域の非漢民族の出身とする新説を打ち出しました。日本の研究者でも松浦友久などが、李白の父が「李客」と呼ばれていて、正式の漢人名を持ったという形跡がないこともあり、また後年の李白が科挙を受験しなかったことなどを根拠にして、李白を非漢民族の出身というの説を支持しています。

現在の中国での李白の通説では、李白は西域に移住した漢民族の家に生まれて、幼少の頃に裕福な商人であった父についていき、西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現在の四川省江油市青蓮鎮)に移住したと推測されています。

いずれにしても、李白は遅くとも5歳の頃には蜀の地に住み着いていたと考えられています。

李白の生涯

「草堂集序」「新墓碑」『新唐書』などが伝えているところによると、李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれています。李白という名前と字は夢にちなんで名付けられたとされています。

5歳の頃から20年ほどの青少年期には、蜀の青蓮郷を中心にして活動していました。伝記や李白自身が書いた文章などによると、この間の李白は、読書に励むとともに、剣術を好んでいて、任侠の徒と交際したとなっています。この頃の逸話としては、益州長史の蘇頲にその文才を認められたこと、東巖子という隠者と一緒に岷山に隠棲して、蜀の鳥を飼育しながら共に過ごし、そして道士の修行をして、山中の鳥も李白を恐れずに手から餌をついばんたこと、峨眉山など蜀の名勝を渡り歩いたことなどが伝わります。

李白25歳の頃の725年(開元13年)、李白は蜀の地を離れます。それ以後10数年の間、長江中下流域を中心にして、洛陽・太原・山東などの中国各地を放浪しています。自然詩人孟浩然との交遊はこの時期とされていて、名作「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が作られています。

李白32歳の732年の時、安陸県(湖北省)の名家で、高宗の宰相であった許圉師の孫娘と結婚します。そして、長女李平陽と長男李伯禽という2人の子が生まれています。740年、孔巣父ら5人の道士と徂徠山(現山東省)に集まって、「竹渓六逸」と呼ばれることもありました。また730年あるいは737年の頃に、長安に滞在して仕官を求めたというのが近年の研究から通説となっています。

742年(天宝元年)の秋に、友人元丹丘の尽力によって、玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の推薦を得て、李白は長安に上京しました。玄宗への謁見を待つため、紫極宮(老子廟)に滞在していた折りに、当時の詩壇の長老だった賀知章の来訪を受けて、この時、彼から名高い「謫仙人」の評価を得ています。

李白はこのように、宮廷で有力な影響力を持つ2人の推薦を得ることができました。そして、同年の冬に、李白は宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになりました。それ以後の3年間は、李白は朝廷で詩歌を作って、詔勅の起草にもあたっています。この時期には、玄宗の寵愛を受けていた楊貴妃の美しさを牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られて、宮廷文人として大いに活躍しています。

しかし、抜群の才能を発揮する一方で、杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動を続けたことから、宮廷人との摩擦を引き起こしています。そして744年に、宦官高力士らの讒言を受けて、李白は長安を離れることになりました。

長安を去った李白は、洛陽もしくは梁・宋(現河南省開封市・商丘市)で杜甫と出会って意気投合します。そして1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅したりして彼らと親しく交遊しています。また阿倍仲麻呂とも親交があります。754年には、前年に仲麻呂が日本への帰国途中に、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞いて、「晁卿衡を哭す」を詠んで阿倍仲麻呂の死を悼んでいます。

安史の乱勃発後の757年(至徳2年)。その当時の李白は、廬山(江西省)に隠棲していましたが、玄宗の第16子の永王李璘の幕僚として招かれることになりました。しかし永王は異母兄の粛宗が、玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めていなかったので、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされて、将軍・皇甫侁と高適の追討を受けて斬られています。そして李白も捕らえられることになり、尋陽(現江西省九江市)で数ヶ月獄に繋がれた後、夜郎(現貴州省北部)への流罪となりました。

流罪として配流の途上の759年(乾元2年)に、白帝城付近で罪を許されることになり、もと来た道を帰還することになりました。この時の詩が「早に白帝城を発す」になっています。赦免後の李白は、長江下流域の宣城(現安徽省宣城市)を拠点にして、再び各地を放浪します。762年(宝応元年)の冬に、宣州当塗県の県令李陽冰の邸宅で62歳で病死しました。『新唐書』などにある有名な伝説では、船に乗っている時に、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ちて、溺死したと言われています。

李白には捉月伝説」以外にも様々な伝説が伝わっていて、後世『三言』などの小説で盛んに脚色されています。

李白の家族

李白の家族に関する情報はとても少ないの実際のところです。先に述べている通り、李白は許夫人との間に2人の子をもうけていますが、夫人とは後に死別したとされています。その後、南陵の劉氏を娶っていますが、この妻とは後に離婚したと考えられています。さらに東魯の某氏を側室に迎えて、その間に末子の李頗黎をもうけたとも言います。また50歳を過ぎてから、洛陽で中宗の宰相であった宗楚客の孫娘、宗氏を継室として娶ったといいます。

李白の妻

  • 許氏 ・・・ 高宗期の宰相で許圉師(許紹の末子)の孫娘。
  • 劉氏 ・・・ 南陵の名家の娘。
  • 某氏 ・・・ 姓は不詳で、東魯の人。李白の側室で李頗黎の生母以外は不詳。
  • 宗氏 ・・・中宗期の宰相で詩人の宗楚客の孫娘。

李白の子女

  • 李伯禽(生まれ不詳~ 792年?)・・・ 生母は許氏。父の後を継いでいます。
  • 李頗黎・・・ 生母不詳です。(東魯の某氏の娘)
  • 李平陽 ・・・ 生母は許氏です。伯禽の同母姉。嫁ぎ先で間もなく早世しています。

李白の詩

李白の詩は、漢魏六朝以来の中国詩歌の世界を集大成したものとされています。「蜀道難」「将進酒」「廬山の瀑布を望む」「横江詞」などに見るダイナミックでスケールの大きい豪放さと、「玉階怨」「静夜思」の清澄で繊細な世界、「山中にて俗人に答ふ」「月下独酌」「山中にて幽人と対酌す」などに見える飄逸で超俗的な雰囲気など、どれも詩の内容は多彩で変化に富んでいますが、総じて変幻自在で鮮烈な印象をもたらす点が特徴的になっています。得意とする詩の型は、絶句と雑言古詩になっていて、とりわけ七言絶句にすぐれています。

著名な作品

  • 原文:「白髪三千丈」書き下ろし文:白髪 三千丈 通釈: 私の白髪は三千丈
  • 原文:「縁愁似箇長」書き下ろし文: 愁に縁りて箇(かく)の似(ごと)く長し 通釈: 憂愁の末にこんなにも長くなってしまった
  • 原文:「不知明鏡裏」書き下ろし文: 知らず 明鏡の裏 通釈: 明るく澄んだ水鏡の中
  • 原文:「何處得秋霜」書き下ろし文: 何れの処にか秋霜を得たる 通釈:これほどに真っ白な秋の霜、一体どこから降ってきたのだろうか
  • 原文:「朝辭白帝彩雲間」書き下ろし文:朝に辞す白帝 彩雲の間 通釈:朝早くに美しい色の雲がたなびいている白帝城を出発し
  • 原文:「千里江陵一日還」書き下ろし文:千里の江陵 一日にして還る 通釈:千里離れた江陵まで一日でかえれるのだ
  • 原文:「兩岸猿聲啼不住」書き下ろし文:両岸の猿声 啼いてやまざるに 通釈:両岸の哀しい猿声が啼きやまないうちに
  • 原文:「輕舟已過萬重山」書き下ろし文:軽舟已に過ぐ 万重の山 通釈:軽やかな小舟は幾万に重なる山々の間を一気に通過してしまった
  • 原文:「牀前看月光」書き下ろし文:牀前 月光を看る 通釈:寝台の前に射し込む月の光をみる
  • 原文:「疑是地上霜」書き下ろし文: 疑らくは是れ地上の霜かと 通釈:これは、地上に降りた霜ではないかと疑うほどだ
  • 原文:「擧頭望山月」書き下ろし文:頭を挙げて 山月を望み 通釈:頭をあげて山に上る月を望み
  • 原文:「低頭思故郷」書き下ろし文:頭を低れて 故郷を思ふ 通釈:また頭を垂れては故郷に思いをはせる

あわら温泉で蟹食べよう