杜甫

李白の『詩仙』に対して、『詩聖』と呼ばれている杜甫(とほ)は、李白と同じく中国文学史上最高の詩人として誉れ高い詩人です。杜甫は、中国盛唐の詩人で、字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣です。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれています。律詩の表現を大成させたのが杜甫です。

杜甫略歴

712年(先天元年)・・・ 河南鞏県(河南省鞏義市)で生まれています。父は杜閑、母は崔氏。祖籍は襄州襄陽(湖北省襄陽市)。三国時代から西晋の武将でもる「破竹の勢い」で有名な杜預は先祖に当たります。祖父は初唐の宮廷詩人として有名な杜審言です。

718年(開元6年)・・・ 初めて詩文を作成しています。

720年(開元8年)・・・ 初めて大字を習っています。

725年(開元13年)・・・故郷に隣接する洛陽で文人の仲間入りを果たします。

730年(開元18年)・・・斉に滞在しています。

731年~734年(開元19年~22年)・・・ 呉・越に滞在します。

735年(開元23年)・・・ 呉、越から洛陽に帰って来てきて、科挙の進士を受験していますが残念ながら及第していません。

736年~740年(開元24年~28年)・・・ 斉・趙に滞在します。

737年(開元29年)・・・ 洛陽に帰ります。陸渾荘を造ってそこに滞在しています。

744年(天宝3載)・・・ 洛陽で李白と出会います。

745年(天宝4載)・・・ 斉に滞在します。そこで再び李白と出会って李白と友好を結びますが、李白とはこれが最後の再会になりました。

747年(天宝6載)・・・ 長安で一芸に通じる者のための試験が行われましたが、杜甫は不合格でした。

750年(天宝8載)・・・ 長男の杜宗文が生まれました。

751年(天宝10載)・・・ 玄宗に「三大礼賦」を奉献します。

753年(天宝12載)・・・ 次男の杜宗武が生まれました。

754年(天宝13載)・・・ この頃は、仕官のつてを求めて、高官たちにしばしば詩を献じています。

755年(天宝14載)・・・ 河西の尉に任じられるが断って、右衛率府の胄曹参軍になりました。

756年(至徳元載)・・・ 安禄山の攻撃によって長安が陥落しました。霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)で粛宗が即位したとの情報を聞くと、長安脱出を試みるますが、反乱軍に捕まったため幽閉されます。

757年(至徳2載)・・・ 脱出して、粛宗から左拾遺の位を授かります。

758年(乾元元年)・・・ 房琯(ぼうかん)を弁護したことによって粛宗の怒りを買うことになり、華州(陝西省華県)に左遷されます。

759年(乾元2年) ・・・ 関中一帯が飢饉に見舞われたことによって、官を捨てます。秦州(甘粛省天水市)に赴きます。さらに同谷(甘粛省成県)に移りますが、ドングリや山芋などを食いつないで飢えを凌いだ時代です。蜀道の険を越えて成都に赴きます。

760年(上元元年)・・・ 成都で草堂(杜甫草堂)を建てます。

765年(永泰元年)・・・ 成都を去って長江を下ります。

770年(大暦元年)・・・ 襄陽を通って洛陽を経由して長安に戻ろうとしましたが、相江の舟の中で客死しました。死因としては、頂き物の牛肉を食べ過ぎて亡くなった話が有名ですが、この話が事実ではないとする意見も多くあるので、確実な死因は不明です。

杜甫の詩の特徴

杜甫の詩の特徴としては、社会の現状を直視したリアリズム的な視点が挙げられます。杜甫は当時の士大夫同様に、仕官して理想の政治を行いたいという願望があったので、社会や政治の矛盾を積極的に詩歌の題材として取り上げていて、同時代の親友でもある李白の詩とは対照的な詩風を生み出しています。後世「詩史(詩による歴史)」と呼ばれるその叙述姿勢には、そ後の白居易の諷喩(風諭)詩などに受け継がれていきます。

「安史の乱」の前後して、社会秩序が崩壊していくさまを体験した頃の詩は、政治の腐敗や戦乱の様子を悲痛な調子で詳細に綴った内容のものが多くみられます。この頃の代表作として「春望」「三吏三別」「秦州雑詩」などがあります。

比較的穏やかな生活を過ごせた成都時代では、それまでの悲しみや絶望感に満ちた詩にかわって、自然に対する穏やかな思いを詠んだ詩が多く作られています。また諸葛亮を讃えた名作「蜀相」なども詠われています。

成都を去った以後の最晩年期の杜甫は、社会の動乱や病によって生じる自らの憂愁それ自体も、人間が生きている証になっていて、その生命力は詩を通して時代を超えて持続すると見なす境地へと達しました。。詩にうたわれる悲哀も、それまでの自己の不遇であったり、または国家や社会の矛盾から発せられた調子とは異なったある種の荘厳な趣を持つようになりました。この時期の代表作としては「秋興八首」「詠懐古跡五首」「登高」「登岳陽楼」などがあります。

杜甫の詩人としての評価ですが、必ずしも杜甫が亡くなってからの短期間で確立したものではありません。没後数十年の中唐期に、白居易・韓愈たちによって杜甫の評価は高まりましたが、北宋の初期でさえも、当時一世を風靡した西崑派(晩唐の李商隠を模倣する一派)の指導者・楊億は、杜甫のことを「村夫子」(田舎の百姓親父)と呼んで嫌っていたといいます。その一方で、南宋初期の詩人である呉可は『蔵海詩話』の中で「詩を学ぶには、まさに杜(甫)を以て体となすべし」と書いています。

明の胡応麟の『詩藪』ように、絶句を得意とした李白と対照的に、杜甫は律詩に優れているという評価が一般的になっています。奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意としています。

著名な作品

  • 原文:「國破山河在」書き下ろし文: 国破れて山河在り 通釈:国家(唐の国都当時は長安)は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、
  • 原文:「城春草木深」書き下ろし文: 城春にして草木深し 通釈: 城内(長安)では春が訪れ草木が青く茂っている。
  • 原文:「感時花濺涙」書き下ろし文: 時に感じては花にも涙を濺ぎ 通釈:時世(戦乱の時期)の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、
  • 原文:「恨別鳥驚心」書き下ろし文: 別れを恨んで鳥にも心を驚かす 通釈:家族との別れをうらめしく思っては鳥の鳴き声にすら心を痛ませる。
  • 原文:「烽火連三月」書き下ろし文: 烽火 三月に連なり 通釈:幾月が経ってものろし火(安禄山の乱による戦火)は消えることはなく、
  • 原文:「家書抵萬金」書き下ろし文: 家書 万金に抵る 通釈:家族からの手紙は万金にも値する。
  • 原文:「頭搔更短」書き下ろし文: 白頭掻けば更に短く 通釈:(心が痛んで)白い頭を掻けば掻くほど髪の毛が抜け落ち、
  • 原文:渾欲不勝簪 書き下ろし文: 渾て簪に勝えざらんと欲す 通釈:まったくかんざしを挿せそうにもないほどだ。

杜甫と日本

松尾芭蕉

杜甫の詩は、日本文学へかなり影響を与えています。漢詩以外のジャンルにも大きく影響を受けていて、特に松尾芭蕉は杜甫に傾倒していました。『花屋日記』によると、芭蕉の遺品に『杜子美詩集』があったとされていて、松尾芭蕉は生涯を通して杜甫を尊敬していたことが窺えます。

『奥の細道』の冒頭にも杜甫の人生である道中で息を引き取りたいと、述べていることから松尾芭蕉の傾倒ぶりがうかがえます。また、有名な一節の

「さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。 夏草や 兵どもが 夢の跡」

これは、「春望」を引用していることが窺えます。なんとなくこの詩の観点はどことなく相違が見えています。杜甫は幽閉の最中に作った詩であることによって、人の営みが今滅ぼされてゆくさまを述べていますが、芭蕉は滅んでしまった後であることから日本独自の無常観が見受けられます。

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